2025年
ーーー9/2−−− クマとの遭遇
つい先日、マツタケ山の作業の帰路、中房川左岸の林の中を軽トラで下っていた時、クマに遭遇した。進路の20メートルほど先をクマが横切り、右手の土手の方に走って行った。そして、土手の縁の辺りで立ち止まった。我々も軽トラを停めた。およそ30メートルの距離を置いて、両者が対峙する形なった。
クマを目撃するのは初めてである。これまでテレビ番組などで画像や動画を見たことはある。その時の印象と比べて、本物はやはり迫力があった。
成獣のクマ(ツキノワグマ)の平均的な大きさは、鼻の先から尻までの長さが130センチ前後のようである。今回遭遇したクマも、その程度の大きさだったと思う。それが、ずいぶん大きく見えた。野生動物の存在感が、あるいは見ていた自分の恐怖感が、実際以上に大きく見せたのだろうか。
遭遇した時、私は軽トラの運転席にいた。反射的に窓を閉めた。しばらくにらみ合ううちに、画像を撮ろうと思い付いた。スマホはウエストバッグに入れてある。普段は腰に巻いているのだが、この日は暑くて汗だくだったので、下山した時にウエストバッグを外して軽トラの荷台に置いた。画像を撮るには、ドアを開けて外に出て、ウエストバッグを回収しなければならない。それは、ほんの2メートルの距離だったが、クマに見つめられている中で移動するのは緊張した。
ウエストバッグを手にして運転席に戻り、窓を開けて画像を撮った。クマは、一瞬我々の方に近寄る気配を見せたが、それはほんの1、2歩で、その後プイッと反対側を向くと、ササッと走り去った。一連の出来事は、30秒間ほどであった。
クマに出会ったら、前を向いたまま穏やかに声を掛け、少しずつ後ずさりして距離を広げるのが良い、などと聞いていた。しかし、こんな動物が突然、5メートル程度の距離に出現したらどうだろうか。そんな冷静な対応は、とうてい私にはできないだろう。
ーーー9/9−−− 単音による演奏
9月6日、長野市のライブカフェ「ラ・ペーニャ」のライブに出演した。基本的に二ケ月に一度のペースで開催されているが、事情により休止の場合もあり、また私の都合で参加できない時もある。記録をめくってみたら、昨年2月のデビュー以来6回目であった。素人の、単なる音楽愛好家にとって、ライブ演奏はなかなか難しいものがある。特にこのライブは、暗譜が原則なので、尚更である。毎回緊張するし、ミスもする。ライブというものは、回を重ねて行けばだんだん慣れるものだと聞いていたが、どうも進歩が遅い。この方面に関して、自分に才能が無いのではないかと絶望し、もう止めようかと思った事もあった。
愚痴はこのくらいにして・・・
今回のライブで私が担当したのは、ケーナが2曲、チャランゴが1曲、ボンボ(太鼓)が1曲だった。チャランゴの曲「ラ・フェリシダージ」は、私が持ち込んだ曲で、これが私としては目玉だった。
ボサノバの曲である。曲を提案した段階で、「フォルクローレの演奏会でボサノバはまずいですか?」と問うたら、リーダーは「南米の音楽だからいいんじゃない」と軽く了承してくれた。
当初の構想では、チャランゴで装飾的な表現を織り交ぜて演奏するつもりだった。しかし、ギターの伴奏に合わせて練習をするうちに、チャランゴは単音でメロディーを弾くだけにとどめることにした。そのようなやり方は、チャランゴとしては芸の無い演奏だが、あえてそのようにしたのは、伴奏のギターのコード進行が絶妙に美しいので、その邪魔にならないように配慮をしたのである。
「単音だけの演奏でやろうと思う」と表明したら、先生は、「それは音楽として最も基本的な事だが、逆に難しいよ」と応えた。それがどういう意味の発言だか、深くは問わなかった。なんだか重く本質的なニュアンスがあり、説明を求めるのは野暮だと感じたからである。
吹奏楽器は、ハモニカなどの一部を除き、単音である。一つの楽器でハーモニーを奏でることは出来ない。歌も同じである。音楽の歴史を考えれば、単音でメロディーを奏でることが、その起源であったことは間違いないだろう。
一方、時代が下って登場したピアノやオルガンなどの鍵盤楽器、またギターなどの弦楽器は、同時に複数の音が出せる。それらの楽器の出現は、音楽表現として画期的なものだったと思う。そして、現代人がそのような楽器を使う場合、ハーモニーを奏でる技術を使わないのは、楽器の特性を生かしていないかのような思いにとらわれてもおかしくは無い。ピアノやギターを使って、単音だけでメロディーを演奏するのは、全くの初心者、あるいは小さな子供のやることだと。
そのようなジャンルの楽器で、単音だけの表現をするのは、「逆に難しいよ」ということになるのだろう。固有の楽器にまとわりついている先入観は、いかんともしがたいからである。しかし、ピアノの音色は、他の楽器で出すことはできない。となれば、どうしてもピアノでメロディーだけを奏でたいという欲求があっても、それはそれで良いのではないか。ピアノを例に引いたが、私が述べたかったのはチャランゴのことである。
この3ケ月ほど、あるポップスギタリストの、だいぶ古いアルバムを、繰り返し聞いている。その演奏は、メロディーラインだけの演奏に終始している。しかも、どちらかと言えばスローテンポで、速弾きのテクニックも聴こえない。クラシックギターの関係者から見れば、何と単純で芸の無い演奏かと見られるかも知れない。しかしその演奏は心に響く。一つ一つの音のタッチが、絶妙なのである。到底真似出来るものではないが、とても示唆に満ちている演奏である。
ーーー9/16−−− 回ってしまうシャワー
自宅の浴室のシャワーが回るので困っていた。この家を建てて以来だから、30年以上前からの事である。シャワーヘッドを、壁のホルダーに挿し込んで固定しようとしても、ホースの反力で回ってしまうのである。そのため、シャワーの水が自分の体に当たらず、ずれた方向に飛んでしまう。そのずれ角度は、日によって差があり、実用上問題が無い程度の事が多かったが、時にはとても不快に感じる事もあった。特に寒い時期は、ホースの柔軟性が下がるので、反発が大きかった。
それを改善するために、シャワーヘッドに輪ゴムを巻いたり、またホルダーにビニールテープを張ったりして、摩擦でしっかり固定するように試みた。しかしこれらの方法も、スマートな解決策とはならなかった。ホテルの浴室のシャワーなどで、ヘッドとホルダーのかみ合わせ部分が多角形になっていて、好みの角度で固定されるようになっている物を見たことがある。なぜ我が家のシャワーはそのような配慮がされていないのか。設計をした人を恨んだりしたものであった。
それが、つい最近になって、解決を見た。シャワーヘッドとホースの接続部において、ヘッドが自在に回る事に気が付いたのである。変な話だと思われるだろう。何故30年以上も、その事に気が付かなかったのかと。
気が付かなかった理由はこうである(と推察する)。水栓をひねってシャワーに水を通すと、水圧によって接続部が回らなくなるのである。シャワーが勝手な方向に向いてしまうトラブルは、シャワーを使う時、すなわち通水している状態で発生していた。そのような状態では、ヘッドが回らず、ホースに固定されていると思い込んでいたのである。
通水を止めれば回転することが分かったので、角度が悪ければいったん止めて調整する。それで解決である。
言うまでもないが、なんだこんな事だったのか、と一番感じているのは、私自身である。
ーーー9/23−−− スイカを食べ尽くした夏
この夏は、スイカを食べ尽くした。こんなに沢山スイカを食べたのは、数年ぶり、いや、数十年ぶりだったかも知れない。カミさんはスイカが嫌いではないが、特に好きではない。私も、食べたいと思うことはあっても、夢に出てくるほどの好物ではない。そんなわけで、子供たちが家を出て二人だけになってからは、スイカを買って食べることがほとんど無くなった。今では、夏に孫たちが来たときに、四分の一にカットされたスイカを買うくらいである。
ところがこの夏は、文字通り大玉のスイカが転がり込んだ。しかも10日くらいの間隔で、続けてである。結局8月のうちに、一抱えもある大きなスイカが3個も、我が家にもたらされた。
この地域の知り合いで、だいぶ離れた場所のお宅だが、何かと地域の活動でご一緒するご夫婦があり、うちのカミさんもその奥様と気が合う関係である。その御夫婦の娘さんが、松本のスイカ農家に嫁いでいて、夏の時期はお父さんが農園へ手伝いに行くのが毎年のことらしい。そのお父さんが、規格外になったスイカを持って来てくれたのである。規格外と言っても、その理由は小さな傷程度の事であり、立派なスイカである。
里帰り中の次女も、孫娘も、スイカが大好物。ちょうど暑い日が続いていたので、包丁でザックリと切り分け、私もカミさんも一緒になって猛然と食べた。とても美味しかったので、お礼を述べたら、「美味しいと言ってくれるのが一番嬉しい」とおっしゃって、しばらくしたらまた届いた。それが繰り返されたというわけ。
最初の一玉は、到底我が家だけでは食べ切れないと感じた。こんなに大きなスイカを丸ごと扱うことなど、ほとんど経験した事が無かったからである。そこで、ご近所におすそ分けをした。その時の我が家の分を、思いの他あっさりと平らげたので、二回目以降はおすそ分けを省いて、家族だけで消費した。それでも、持て余す事など無く、良いペースで食べ切った。スイカは終始美味しく、我が家を徹底的に楽しませてくれた。
暑いときに汗をかいて水分が欲しくなり、ジュースや炭酸飲料などを飲んでも、喉の渇きはなかなか癒されないし、飲み過ぎれば体調が悪くなる。その点、スイカは渇きが収まり、大量に食べても違和感は無い。スイカはまさに真夏の食べ物だということを、贅沢に食べて実感した。
ーーー9/30−−− さえない温泉施設での教訓
果樹農園のアルバイト。この日、梨の収穫作業を行ったが、雨のため正午で作業中止となった。この数日間の、無理な姿勢の作業で、疲れがピークに達している。梨農園の作業は、空中に張ったワイヤーに枝を添わせた棚の下で行うが、背が高い私は頭がつかえて中腰にならざるをえない。それが一日中だから、かなりこたえるのである。昼食後に昼寝をしたが、いつになく眠りこけ、しかも寝起きもスッキリしなかった。そんな状態の体を、少しでも癒そうと思い、近くの温泉に行った。
穂高の「しゃくなげの湯」。土曜日のせいか、あるいは飛び石連休のせいか、3時過ぎの早めの時間でも、かなり混んでいた。
安曇野市から配布された、高齢者の入浴料金割引券を持参した。この割引券は、市内在住の70歳以上のシニア(老人)を対象とした、12枚綴りの割引券で、これを提示すれば200円割引となる。ちなみに、シニアの入場料金は450円であるから、この割引券を使えば250円で入れる。
普段あまり温泉を利用しない私は、この日が今年度初めての利用であった。
受付の券売機でシニアの入場券を買おうとしたら、なんだか使いづらい装置だった。千円札を入れようとしたが、入れる場所がはっきりしない。この装置は、案内の文字や、ボタンの表示などの字が小さくて見難いのである。しかも暗がりで、なおさら見え難い。ようやくお金を入れて、ボタンを押したのだが、券が出ない。受付にいた男性に「券が出ませんが」と言ったら、装置のそばまでやってきて、ぶっきらぼうに「出てますよ」だって。指差す方を見たら、券の出口の透明カバーの向こうに、券が張りついていた。これでは、慣れていない人には券が出ているとは見えない。なんでこんな装置を使うことにしたのだろうかと思った。
この温泉施設は10年ほど前に開業したもので、安曇野市が運営している。これまで何度も利用したが、なんとなくしっくりこない部分がある。受付の対応もその一つ。いろいろ人が変わるのだが、おしなべて接客態度が板に付いていない。旧施設の「シャクナゲ荘」のときは、そんなことは無かったのだが。
それ以外に、こんな事もある。最近になって、脱衣場のヘヤードライヤーが有料になったのである。開業当時は全て無料だったが、そのうちに一部の高級機種(?)が有料になった。それが最近は、全て有料になった。必ずドライヤーを使う人、例えば女性客などにとっては、実質的な入浴料金の値上げに等しい。こんな施設は、聞いたことが無い。それでも利用者はしたたかなもので、ドライヤーを持参して、脱衣室のコンセントに挿して使っている人を見掛けることがある。
さて、話を戻して今回の事。先ほどの受付の男性に入場券と割引券を合わせて提示したところ、二枚の券を交互に指差して、「こちらで一人分、そちらで一人分」などと変な事を言った。要するに「割引券を使うなら、券売機で入場券を買ってはダメですよ」と言うことであった。割引券を使う人は、直接受け付けに提示する方式とのこと。そう言われてみれば、以前来た時はそのようにしたかも知れないが、なにぶんにも前の事なので憶えていなかった。
「それでは払い戻して下さい」と伝えたら、相手は一瞬不機嫌そうな顔になったが、応じてくれた。かくして、無事に割引券を使うことが出来たが、こちらも心中穏やかざるものがあった。
そんないきさつがあり、頭の中がモヤモヤとして浴場ののれんをくぐったら、後ろから「そちらは女湯ですよ」という声が聞こえた。振り向くと、若い男性が親切に注意をしてくれたのであった。私は「スミマセン、ちょっとぼんやりしていたので」と礼を言って、引き返した。
こんな事があったその日の教訓。
日常生活の局面で、勘違いをしてモタモタしている老人、要領が分からず途方にくれる弱者、などに遭遇した場合は、大らかな気持ちで、優しく見守り、親切な対応をしよう。
そういう場面では、とかくイライラして、冷たい態度を取りがちだった私だが、この度は自分がこの有様。立場が逆転して辿り着いた教訓である。
大多数の人が出来ることを、出来ない人もいる。それには個別の様々な事情がある。年齢的な衰え、ボケの他にも、その方面に慣れていないとか、初めてであるとか。また個人の向き不向き、得意不得意もある。「こんな事も知らないのか」と言って他人を叱責する人は、自分がそれを知っているだけの事である。別のシチュエーションになれば、立場が逆転することもある。
目の前に動作の遅い人がいたら、イライラして不快感を露わにするのではなく、どんな事情かは分からないけれど、その人にはその人の事情があるのだと思いをいたし、心を静めて穏やかに見守るようにしたい。立場が逆なら、きっと自分が寂しい思いをするのだろうから。